玉津島明神

新しくなった衣通姫を祀る玉津島明神
新しくなった衣通姫を祀る玉津島明神

忍坂坐生根神社から南へ約100m、生谷(いくだに)にあるのが「玉津島明神」です。 石燈籠1基には、嘉永7(1854)の刻銘が見られ、春日造りの小さな祠が建っています。昔、この地に大きな杉の木がありました。祭神は、稚日女尊(わかひるめのみこと・天照大御神の妹神)と衣通姫(そとおりひめ)で、『衣通姫』は記紀ではそれぞれ「衣通郎女」「軽大郎女」「衣通王」あるいは「弟姫」「衣通郎姫」と、いろんな名前で呼ばれていますが、この地で生まれたと伝わっています。

  

また、「産湯(うぶゆ)の井戸」といわれるものがあって、2011年に石垣の補修工事にあわせ伝承されていた場所を掘ったところ「伝承井戸」の石積みの一部かも知れない石材が見つかり石積みを保存すると共に、従来境内隅にあった石の井戸枠と新たに井戸を掘り、掘り出した石積みの石を底に敷き詰め、見学できるようにしています。衣通姫は絶世の美人と伝承され、その美しさが衣を通して輝くことから名付けられたといいます。「古事記」では、第19代允恭天皇と忍坂大中姫との間に生まれた、軽大郎女を衣通郎女または衣通王とされています。


また「日本書記」では、第19代允恭天皇の皇后である忍坂大中津姫の妹である弟姫で、別名、衣通郎姫とされ、古事記で言われている軽大郎女の叔母にあたる人となっています。どちらにせよ、「忍坂大中姫(忍坂之大中津比賣)」が居たとされるこの地で、その子供か妹が一緒に居たとするのはごく自然の形であって、本朝三美人の一人とも称される美人が使っていたとされる井泉を古来より産湯として使ってきた村人の思いが「伝承の井戸」として今に蘇ったのです。


後世、紀伊国・和歌の浦の玉津島神社に祀られる玉津島姫と同一視され、和歌三神<玉津島明神(衣通姫)・住吉明神・柿本人麻呂、叉は天満天神(菅原道真)>のひとつとされています。

境内にある石燈籠には、生根神社と同様、毎日欠かすことなく各家庭が持ち回りで、御灯明をあげています。衣通王が詠んだ歌として、古事記・允恭天皇条に

 

『夏草の あひねの濱(はま)の 蠣貝(かきがい)に 足踏ますな あかしてとほれ』 (歌謡八十八)

 

『君が往()き け長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ』(歌謡 八十九)

 

境内に設置の「衣通姫」産湯の井戸・・ここには井戸枠だけを再現
境内に設置の「衣通姫」産湯の井戸・・ここには井戸枠だけを再現
境内から少し離れた伝承の場所から井戸の石積みが・・・
境内から少し離れた伝承の場所から井戸の石積みが・・・