<その他の遺跡>

1.忍阪遺跡


二次調査

二次調査」は、294297番地の字・築糸ケ坪(つくしが坪)の宅地開発による発掘調査が県教育委員会・橿原考古学研究所・桜井市教育委員会・埋蔵文化センターによって19864月から6月に実施されています。当該場所は、築糸ケ坪(つくしが坪)の一部で、明治20年の地籍図による字ヲムロ(大室)の西側にあり、現在の大室町に当たります。

調査の結果、弥生時代末期の遺構及び150基ほどの大型掘立柱建物や柵の跡があり、5世紀後半から6世紀後半にかけての1世紀にわたって建物群が造営され続けていたことが判明しています。出土遺物としては、縄文時代---中・後期の土器、深鉢などの器類。
弥生時代---庄内式土器、壷の口縁部など。また銅の鏃(ヤジリ)2点。古墳時代---多量の土師器、須恵器、フィゴの羽口、鉄滓(テツサイ)、また包含層中より製塩土器のほか鉄鉾1点、馬歯若干、滑石製未完成品、遺構中より滑石および碧玉の勾玉2点などが出土しておりこれらの出土遺物は、橿原考古学研究所に保管されています。

遺物から推測されることとして日本書紀・垂仁紀(すいにんき)39年に皇子の五十瓊敷命(いにしきのみこと)が一千口の太刀を作って石上神宮(いそのかみじんぐう)に納めていることが記されているが、その前に『忍坂邑に一時保管されていた』との記述があり太刀の製造所か倉庫(武器庫)との関連が注目されます。遺構は埋め戻され、再び深い眠りについています。

二次出土
二次出土

▲二次調査では、弥生時代末ごろの壷などが出土。

二次調査で建物跡が・・・
二次調査で建物跡が・・・

▲左:忍阪遺跡二次調査。発掘調査概報より。5世紀後半〜6世紀後半にかけての一般的な建物ではない建物群跡が見つかっています。武器庫だったのでしょうか?

 


三次調査

  

「三次調査」は、当初「忍阪柳田遺跡」とも呼ばれており、昭和52年、個人宅地における側溝工事中に発見された遺構で小規模の調査で弥生時代後期の土器から古墳時代後期までの土師器・須恵器が出土しています。土器の中には、漢式土器と考えられている小片もあったようです。

三次調査で発掘された遺跡と土器類


四次調査

「四次調査」は、平成16年に行われ、明治時代の地籍図で観音寺とされるところで、個人宅の宅地開発による調査で、ここでは平安時代の木棺墓の中から、黒色土器壷、土師皿、青銅製の八稜鏡(はちりょうきょう)、横櫛などが出土しています。
鏡と櫛・・被葬者は女性かもしれません。

 

第四次調査出土品。平安時代の木棺墓の中からは、黒色土器壷、土師皿、瓦器碗、石鍋などが出土しています。 <桜井埋蔵文化財センター>

 


2.外鎌山北麓古墳群の忍阪支群

この外鎌山古墳群は忍阪・脇本・慈恩寺の3つの区にわたり、外鎌山の北側斜面に位置した古墳群で、近鉄団地の造成によって発掘調査されたものです。総数38基の古墳時代後期と終末期古墳があり、そのうち忍阪地区の部分での9基を忍阪支群とされています。
忍阪支群にある古墳は、815m程度の円墳であり、8号・9号は多角形墳の可能性もある。8号・9号墳は、6世紀の初頭から後年にかけての群形成がみられるという。これら古墳のほかに、奈良時代の火葬墓が調査されている。

 近鉄団地の「古墳公園」には、忍阪支群の4基が移設されています

1号墳

1号墳
1号墳
1号墳より出土の堤瓶
1号墳より出土の堤瓶

2号墳

2号墳」は、墳丘の盛土は流失しているものの、周濠の痕跡から径13mの円墳であることがわかっています。石室は両袖式の横穴式石室で、羨道は既に失われていましたが、石室内部からは鉄刀・金環・瑪瑙製丸玉・刀子・金銅製金具・鉄釘などのほかに須恵器・土師器が出土し、6世紀末~7世紀初頭にかけての築造と考えられています。

 

2号墳
2号墳
2号墳出土の須恵器・鉄刀など
2号墳出土の須恵器・鉄刀など

3号墳

3号墳」はこの古墳公園には移築されていませんが、円墳であったとされています。(当初、桜井文化会館前に移設されましたが、その後は不明)横穴式石室で6世紀後半の築造と考えられています。石材は、ほとんど抜き去られていましたが幸い土器類は埋納時の状態を良好にとどめ、古墳時代後期の葬送儀礼を知る上で貴重な資料であるとされています。

4号墳

4号墳」は調査後消滅しましたが、第二次埋葬からは、鉄鏃(ヤジリ)・鉄鎌・須恵器のほかに優秀な鉄製轡(クツワ)一式が出土しており、これらの出土遺物は、橿原考古学研究所で保管されています。

4号墳から出土の馬具
4号墳から出土の馬具

5号墳

忍阪5号墳は一辺約20m×15mの不整形な長方形墳で埋葬施設は土壙に土師器の壷を据えていたようです。出土遺物は土師器壷、高杯、小型丸底壷などで築造年代ではこの古墳群中最も古い4世紀初頭と考えられています。

 

8号墳

8号墳」は、調査時には墳丘はなく、石室もその半分が既に失われていた。石室内部からは多量のガラス玉・銅釘などのほかに少量の須恵器・土師器が出土し、7世紀中頃から後半にかけての築造と考えられている。この古墳で特筆すべきは,六角形の磚槨式石室という特異な石室構造で、磚(レンガ)を模した榛原石を積み上げて石室を構築するという、非常に珍しいものである。

8号墳は六角形の磚槨式石室の特異な構造。

右:8号墳、左:9号墳から出土の甕
右:8号墳、左:9号墳から出土の甕

9号墳

9号墳」は、墳丘は既に無く、石室も大半が失われていた。石室内部からの出土遺物は無く、周溝内より土師器甕が1点出土し、7世紀中頃から後半にかけての築造と考えられている。この古墳で特筆すべきは、磚槨式石室という特異な石室構造で、磚(レンガ)を模した榛原石を積み上げて石室を構築するというという非常に珍しいもので、8号墳の石室の技法と共通点が多く、同一の工人集団によって築かれたのではないかと考えられている。