忍坂街道

忍坂街道は、平成17年文化庁より「遊歩百選」として「大和の古道紀行」の中に選定されました。神武東遷の時、宇陀~粟原~忍阪の村~宇陀が辻の道。「忍坂道伝承地道」の石碑が、この場所と、石位寺から30m西側にある庚申堂前の国道166号沿いにある2箇所に建てられています。

これらの石碑は、聖跡伝承地が数多くある桜井市(当時は町)が、日本紀元で数える2600年目にあたる昭和15年(1940年)に建てたものです。神武天皇東征のとき、東に位置する宇陀(松山)から半坂峠(大宇陀区嬉河原から粟原山頂上の鉄塔の下)を経て粟原へ、そして忍阪の村を通って宇陀ケ辻への道、また向垣内橋から浅古への多武峯への道・・・これが『忍坂道』なのです。

 

この忍坂(押坂)の地を『宮』としていたとされる「忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)」が住んでいたとされている忍坂の土地。人の行き交いもあったでしょう。『日本書記』皇極3年(644年)の記載によると菟田山には仙薬とする水銀の鉱床があったとされ、近年まで採掘されていました。また、宇陀野へは仙薬としての薬草や猪・鹿などの薬物採取を目的として出向いていたのです。草壁皇子(日並知皇子)や軽皇子が狩猟していた宇太郡漆部里・・・つまり阿騎野の里への道なのです。この時に忍坂を通る道は出来ていたのです。松山街道といわれる前に、すでに「忍坂道」があったと言えます。

 

「忍坂街道」は平成17年に文化庁により『遊歩百選』として『大和の古道紀行』の中に山之辺の道などと共に選定されました。