鏡王女墓(かがみのおおきみぼ)

(注意)当ホームページでは鏡王女(万葉集)、鏡女王(延喜諸陵式)鏡姫王(日本書紀)は全て同一人物と想定し「鏡王女」で統一させていただいております。

 舒明天皇陵から東北に見える円墳が、鏡王女(かがみのひめみこ)の墳墓です。平安時代に出来た「延喜諸陵式」によると『鏡女王・押坂墓』と記載され、大和国城上郡押坂陵域内東南にあるとなっています。鏡王女は、『万葉集』の古写本には「鏡王女」とあり、『日本書紀』には「鏡姫王」という名前が記されていますがいずれも鏡王女と同一人であるとされています。


 鏡王女は、近江国野洲郡鏡里の豪族・鏡王の娘で、万葉歌人として有名な額田王の姉にあたるとされています。はじめ天智天皇の妃で、のちに藤原鎌足の奥さんになった方と言われています。 奈良・興福寺の起源となる山階寺(やましなじ)は、藤原鎌足が病気のとき、鏡王女によって建立されたと伝えられています。「日本書記」によれば、天武12年(683年)74日、天武天皇は鏡王女の宮へ行き、見舞ったが、彼女はその翌日に亡くなったと記されています。 

 鏡王女は、天智天皇と藤原鎌足との相聞歌、額田王との唱和の歌を作っています。万葉集には5首を残していて、その一つは、犬養孝氏揮毫による万葉歌碑として舒明天皇陵から鏡王女墓に向かう小川の中に佇んでいます。

 

『秋山の 樹(こ)の下隠(がく)り逝(ゆ)く水の 

      吾(われ)こそ益(ま)さめ み思ひよりは』(巻2-92


 この歌は、皇太子であった中大兄皇子(のちの天智天皇)が鏡王女に送った歌「妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを」に答えた一首であるといわれています。墓は、かつて幹を高く伸ばした松の木が数本植わっていて、写真家・入江泰吉氏もこの風景を「写真集・やまと余情」に残されています。今は、杉と檜の木の中に八重桜が春の日を浴びて明るい雰囲気を演出しています。昔、「談山会・大正45月」の立て札が建ち、宮内庁管理でなく談山神社の関係者によって維持されていた記録もあり今も、談山神社の管理下で忍阪・生根会(老人会)が、下草刈りの奉仕作業を行っており6月の奉仕作業のあと、談山神社神職による祭祀・直会(なおらい)が催されています。談山神社では、東殿(重要文化財)を『恋神社』として鏡王女を祀る「えんむすびの神」として崇められています。天智天皇から鏡王女を譲り受けることになり、鏡王女と互いに熱愛していた鎌足は、たいそう喜んだそうで・・・・鎌足と鏡王女の相思相愛・・・恋の成就の神とされる由縁がここにあるのかもしれません。