忍坂坐生根神社

忍坂坐生根神社
忍坂坐生根神社

忍坂坐生根神社は天平2年(730年)の『大倭国正税帳』に名前が見える古社で、「延喜式内社」<延長5(927)にまとめられた「延喜式」に「官社」と比定された神社>です。拝殿のすぐ北側に、神が鎮座する「磐座(いわくら)」があり、昔より『石神さん』と親しみをこめて呼ばれています。

祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと。薬・治療・医薬・温泉・国土開拓・造酒の神)と、額田部氏の祖である天津彦根命(あまつひこねのみこと)を祀っています。西向きの拝殿(切妻造妻入、銅板葺)のみで、三輪の大神神社と同じ宮山をご神体としています。
大神神社の祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)。少彦名命と大物主命は共に国造りをした神で、我が生根神社は、三輪さん(大神神社)とは深い繋がりがあるのです。
「三輪流神道深秘抄」に「忍坂宮イクネ大明神、イヅレモ三輪ノ大明神ノ御子神トイヘリ」と記されています。

拝殿の北側には、石位寺の東から遷された「天満神社(祭神・菅原道真)」(雷の神・学問の神 / 春日造、銅板葺)を祀ります。拝殿に登る石段の左右には、境内社の「神女神社」(市杵嶋姫命・イチキシマヒメ・・水の神。厳島神社の祭神・・このイツクシマもイチキシマからきたとも言われています)と「愛宕神社」(火伏せ、防火の神)を祀ります。拝殿と天満社の間には、大小21個の自然石を並べた『石神』(磐座(いわくら)。幅30〜50cm、高さ10〜40cmの花崗岩)があり毎月1日には区の各隣組長が交替して神前に供え物をし、神主の祝詞をいただいています。

毎年、大晦日には、区の役員と新旧の隣組長が揃い、拝殿裏の聖域とするところを紙垂(カミシデ)を付けた注連縄(しめなわ)で囲い、新年準備を行います。この囲む場所を特別な神域としているのです。併せて、境内への正面石段の登り切った頭上の榊の木に、宮山から採った杉の小枝を編みこんだ注連縄(しめなわ)を垂らし、神聖な域を造って新年を迎えるのです。いにしえからの例祭は毎年1017日に催され、桜井市史(資料編下巻158頁〜179頁)が記すところによると、忍坂宮座文書の「忍坂庄神事務帳」には、延徳4年(1492年・コロンブスがアメリカ大陸発見した年)から明治時代までの記録が残っています。これほど、詳細な記録は貴重な存在です。


かつての秋祭りの宵宮には、「キョウの飯」というお供えと「ドヘ」という御幣を供える「後夜の渡」という祭祀が行われていました。境内の北東隅に、旧神宮寺の廃円福寺・観音堂があったが、傷みが激しく、昭和50年頃に取り壊されています。明治20年の忍坂地籍図には、「柳田」の東、「ハソ谷」と「板屋」の間に、『観音寺』という地名が載っており、今も小字として残っています。『観音寺』とは、どんな寺であったのだろうか? この観音寺と円福寺はどういう関係だったのだろうか。興味のあるところです。

 

現在、境内には23基の石燈籠があり、最古のものは拝殿下にある左右の延寶2年(1674年)のもので他に天満社から移されたとされる石燈籠は、享保2年の銘があります。これらの燈籠には、毎日欠かすことなく各家庭が持ち回りで、灯明をあげています。また、正面登り口の石橋は正徳5年(1715年)の銘が、そして、拝殿の石段側石は寶暦8年(1758年)。大手水鉢は慶応2年(1866年)の刻銘があり、この他、年代不詳の陰陽石が一基あり、静かに村の安全と繁栄を見守っています。

境内の生根会館前には、万葉歌碑があります。万葉集 巻13-3331<(作者不詳)・洋画家・有島生馬氏の揮毫)>の歌で、平成2年、元・区長下岡一雄氏の叙勲記念として建てられています。

『こもりくの 泊(はつ)()の山 青(あお)(はた)の忍坂の山は走出の よろしき山の 出で立ちのくわしき山ぞ あたらしき山の 荒れまく惜しも』

<意味>
泊瀬の山、忍坂の山は、家からひと走り出たところ、家の戸口を出たところにある(見える)美しくすぐれた山である。このりっぱな山をいつまでも保ちたいのだが、年ごとに荒れていくのは、ほんとうに惜しいことである。