庚申堂

古くからの集落や街道筋、道の分岐点などには石碑や石仏などが建てられています。

何気なく通り過ぎてしまいそうですが、それぞれ建てられた意味や思いがあるのです。

忍阪の場合は、この場所に庚申堂があります。

 

庚申(こうしん)とは「かのえさる」を意味し干支(えと)の一つで近世盛んだった民間信仰です。近年まで忍阪にも数組あり、60日に1回、年に6回、巡ってくる庚(かのえ)申(さる)の日には各家持ち回りで、掛け軸とお膳を回して皆でお祀りし、4年に1回のうるう年には、各組が集まり各組(とうげ)で、樫の木(梵字でご真言が書かれています)を交換していました。しかし、このしきたりも、今は廃っており、庚申講が残っているのも僅かとなっています。 

 

 文化財としてこの庚申堂の石仏を見た場合、最も興味深いのは、向かって左端から二つ目に位置する「薬師如来坐石仏」で、戦国時代・享禄5年(1532)「道友」の銘があり、様式的にも16世紀前半のものであり、その肩部には月と日が刻まれており、本像が庚申講に関する像である事がみてとれます。大分県の宇佐八幡宮所蔵の「庚申因縁記」には戌亥の刻に文殊、薬師、過去七仏の各号を唱えるとあり、こうした庚申講の礼拝本尊として薬師三尊が拝されたと考えられ、この石仏もそうであろうと思われます。

通常、庚申関係碑は近世以降増加するもので、中世に遡るものは文明3年(1411)造立の埼玉県川口市の領家実相寺のものが最古で他には少数の例がが見られるのみであり、奈良県内では最古級のものと考えられ庚申信仰の展開を考えるうえで重要な文化財です。

 

 この他、庚申堂には不動明王石仏(文禄 元年・1592)、一尊笠仏(16世紀)、地蔵石仏(15世紀)、二尊石仏(戦国末期~江戸前期)、青面金剛石仏、(宝暦6年・1756)阿弥陀石仏(16世紀)などが安置されています。