名所・旧跡


  「忍阪」は、神武天皇が南紀・熊野を経て大和に進攻のとき、宇陀から峠を越えて土蜘蛛八十建(やそたける)を征伐した「忍坂大室屋」の伝承地です。その地名は「字ヲムロ」として昔の地籍図に載っています。忍坂山(今は外鎌山)の麓には、第34代舒明天皇をはじめ万葉歌人・額田王の姉とされる鏡女王など、万葉の時代を築いたゆかりある人々が静かに眠っておられます。『言霊(ことだま)の幸はふ(さきわう)国』であった頃、万葉歌に散りばめられた山や川もここにあります。


  石位寺には、額田王の念持仏とも言われる「薬師三尊石仏」が今日も静かに微笑み続けられています。弥生時代の遺跡には、いにしえ人の暮らしと足跡が残り、古代神社形式の生根神社や玉津島明神に毎晩灯す灯明には、いにしえ人の心が今も引き継がれております。

明治時代の地図
明治時代の地図

古事記・日本書紀 登場の「忍坂 大室屋」・・・その跡地

「忍坂大室跡」標識が建てられていたところ・・・・

 昭和12年に発行され、その後復刻版にもなっている『史蹟名勝天然記念物<昭和編>(不二出版・発行)において高橋城司氏の「大和に於ける歴代の聖蹟」の中で、忍坂の大室跡について記されているのを見つけた。その原文は・・・

 

『磯城郡城島村大字忍坂に字オムロといふ処がある。俗にオボロ叉はオブロと謂っている。櫻井町から松山町へ通ずる縣道を約二十町も来ると、城島村の大字赤尾(?)に小学校があるが、其小学校の前を通り過ぎると、直ぐ、田を隔てて左手に見ゆる丘陵である。縣道からは約三町も入らなければならない。此オムロと呼ばれる地點が、大室の跡であるといふのである。

西へ流れる尾根の突端に當って居り、現在、麥畑になってゐる地點に、標木が建てられてある。表面に「神武天皇聖蹟」と記され、两側面に「忍坂大室屋之跡」、裏面に城島村と書かれてある。大室のあったのは、其の標識のある畑より一段低い、窪みのある畑であると謂はれ、明治年間、櫻井・松山間の街道を改修する時、此處から石を澤山搬出したとのことである。其の中に直刀の破片と思はれるものや、土器の破片等も澤山あったとのことであるが、それは果たして天皇時代のものであったか?将た叉其後墳が築かれたことがあって、其遺物が出たものであろうか?  -------


 別掲の寫眞は、大室の跡であるといふ畑の西北の高所から西南を望んで撮したもので、標識の手前の低い所が大室の跡になるのである。標識を越えて見える手近の丘陵の突端には古墳が營まれてある。更に彼方に高く聳ゆるのは、國見岳に擬せられる音羽山や經ケ塚の連峰であり、國見丘に八木梟帥を打ちて後、忍坂に大室を設けるといふことが、地理的に極めて自然に肯ける。

尚、寫眞を撮した足許に、自然石の相當大きなものが、半ば傾いてあつたが、それには、正面に梵字が刻まれ、其下に「十一面勸世音」とあり、更に其の下に「惣法界・・・・」と三行に割書されてある。そして、碑の両側に「はせ寺へ五十町、たふのみねへ五十町と刻まれてあるから、此の地點が多武峰、初瀬の振分であり、こんな道しるべが立つ以上、今こそ畑道になつてゐるが、當時に於ては相當な交通路であったものと考へられる。年號は刻んでないのか、それとも裏面の土に埋った部分にあるのか、見出すことが出来なかった。」----以下略----


ということで、その中で掲載されていた写真がこれである。
写されたのは大正時代か昭和のはじめの頃なのか、写したと思われる場所を探した。写真を手に西南面に張り出した小高い山裾に登って見比べてみた。ほぼ同じ角度から撮ったと思われる場所に立ってみたが、恐らくもう少し上部から撮ったものであろうが、その場所には雑木が生い茂り立ち入ることが出来ず、諦めざるを得なかった。
標識が立っていた場所の手前が窪んでいたとされるが、今は埋められ畑になっている。近くにはそれらしき石も見当たらない。室の形となっていた巨石は国道166号の下に埋もれているのだろう。昭和28年に166号は完成している。この標識の手前辺りを掘れば何か出てくるかも知れない。

写真中央の白いのが標識で、この手前側の低くなっているところが大室屋の跡らしい。下の現在の写真と比べてみると・・・よく似ている。本当は、もう少し山に登って見下ろして撮れればいいのだが・・・。
尚、この写真は、『復刻版・史蹟名勝天然記念物<昭和編> 高橋城司氏著・「大和に於ける歴代の聖蹟(四)」』から転載させていただいたもので発行所の不二出版様から許諾を得ております。

この写真の右下辺りが大室屋の跡だったのでしょうか? この畑の部分は戦後、埋められ整地されたと聞いている。