舒明天皇押坂内陵(段ノ塚古墳)


34代・舒明天皇(在位629641)は、諱(いみな・実名)を田村皇子(たむらのみこ)。別名、息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。父は押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)。母は糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ)=田村皇女で舒明天皇の諱である田村皇子は母親の田村皇女の名に由来するのでしょう。

629
年に即位し、翌年10月、飛鳥岡本宮(飛鳥坐神社から岡寺にかけての丘陵部)を営み在位中、最初の遣唐使を送り、また唐からの返訪や学問僧も帰国し、聖徳太子が進めた仏教文化移入が大いに拡大した時代を作っています。皇后の宝皇女(たからひめ:のちの35代皇極天皇(37代斉明天皇))は、大化の改新や百済救済など国運を左右する時期の女帝として君臨しこの皇后との間には、二人の息子、38代天智天皇(中大兄皇子:大化の改新の首謀者)と40代天武天皇(大海人皇子:壬申の乱で勝利。律令国家の礎を築く)、そして一人の娘(後の孝徳天皇妃)が誕生しています。

 

飛鳥岡本宮(飛鳥板蓋宮→後飛鳥岡本宮 現・伝承飛鳥板蓋宮跡)のほか、田中宮、厩坂宮(うまやさかのみや)に次いで百済宮(くだらのみや)を宮居とし、49歳の時、新築となった百済宮で崩御。宮の北で殯(もがり)に付されています。その後、滑谷岡(なめはさまのおか)に葬られていましたが、643年に現・忍阪段ノ塚に改葬されました。

 

元禄10年(1797年)、当時の忍坂村庄屋と年寄が南都奉行所に提出した覚書には「舒明天皇陵」との伝承の記載はなく、「段ノ塚」と呼称として詳細に報告されています。その後、元禄修陵の際、段ノ塚を舒明天皇陵と決定し、これ以降、宮内庁では段ノ塚を『舒明天皇 押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)』と治定しています。この覚書では、段ノ塚の裾に大石があり、その石の隙間から、広い奥行きが伺えると記されている事から横穴式石室で、大石は羨道部の入口の天井石であると推測され、また段ノ塚という呼称は、墳丘が何段かに築成されている事からきているとされています。

 

平成4年と9年に宮内庁陵墓調査室で墳丘外形調査が行われています、その結果上円部南半分で八角墳の隅角が発見され正面の隅角に当たる部分は隅切になっていました。この事から従来上円部とされていた箇所は変形8角形(9角形ともいえる)と判明しています。(しかしながら宮内庁は、この古墳は上円下方墳という立場を変えていません)


この舒明陵をはじまりとし飛鳥時代の大王、天皇の墓制として八角墳が採用され以降、斉明天皇陵(牽牛子塚古墳)、天武天皇陵、天武・持統合葬陵、草壁皇子の墳墓(束明神古墳)文武天皇陵(中尾山古墳)と舒明天皇に始まり皇孫の文武天皇まで採用されています。尚、この舒明陵は、合葬墓の可能性が高く宮内庁は舒明天皇は生母である押坂彦人大兄皇子妃・『糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ)押坂墓』と治定しています。谷森善臣『山陵考』に、往年に南面が崩壊し、里人が中を覗いたところ横穴式石室内に石棺が二基あり、奥棺は石室に直交、前棺は平行に置かれていたという内容を載せており、舒明天皇と田村皇女(糠手姫皇女)の合葬を裏付けていることにもなるのではないかと思われます。
古来より、この御陵は、“逆上の病”に霊験あらたかであるとして参拝者を集めており、御陵脇の古い手水鉢がその名残を留めています。舒明天皇の曾孫である文武天皇の大宝元年(701年)に唐の律令制に習って「大宝律令」を定め、その中に日本で最初の医療制度に当る「医疾令」 が定められたのですが基になっているのは、舒明天皇が遣わせていた遣唐使たちが持ち帰ったものであり、その天皇の功績から崇められてきたのかもしれません。現在、舒明天皇押坂内陵は、宮内庁書陵部畝傍陵墓監区事務所忍坂部によって管理されています。
 

8世紀に編纂された万葉集は古い年代の歌も伝えられますが、ある程度信憑性が高いのは舒明天皇の時代からで「万葉集」の2首目に舒明天皇の国見歌が残されています。

 

大和(やまと)には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山 

登り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立ち立つ 
海原(うなはら)は 鴎(かまめ)立ち立つ 
(うま)し国ぞ 蜻蛉島(あきつしま) 大和(やまと)の国は

<意味>
大和には多くの山々があるが、とりわけ装いのよいのが香具山である。その山に登って、国見をすると、陸のあちこちに炊煙が立ち上っている。海には多くの鴎が飛び立っている。蜻蛉島(あきつしま)である大和の国は、ほんとうに美しい。

 


このHPも宜しければごらんください。

http://tokootome.jimdo.com/万葉集と考古学/舒明天皇陵/