忍坂山(外鎌山)

外鎌山(とかまやま)は、万葉集の巻13-3331で「忍坂(おさか)の山」として次のように詠われています。
「こもりくの 泊瀬の山 青幡の 忍坂の山は 走り出の 宜しき山の 出で立ちの くわしき山ぞ あたらしき山の 荒れまく惜しも」

また、『大和志料・下巻』や『磯城郡誌』には、恩坂山(おしさかやま)として次のように記されています。

『恩坂山(おしさかやま)は、城島村大字忍坂ノ東ニアリテ慈恩寺龍谷ノ二村に連互ス、支別ニ高圓山(タカマドヤマ)小倉山(オグラヤマ)あり』と。

また、「敷島の高圓山は慈恩寺の南龍谷にあり・・・」と記されています。このことから「恩坂山」とは、外鎌山(高圓山)・小倉山を含んだ全体の山のことのようです。

また、明治20年の村が所有する手描き図には「外鎌山」のことを「磯城嶋高圓山(タカマドヤマ)」として描かれています。(右上に掲載の地図)
「高円山石位寺」の山号(高円山=こうえんざん)は、この「高圓()山(たかまどやま)」からきているのでしょう。

国土地理院では、外鎌山の点名を「高間山(タカマヤマ)」として記され、標高292.38mとしています。これは明治204月の式上郡忍阪村・地押調査地引図に「字タカマ」と記されていることから、「高間(タカマ)」とされたのでしょう。 

 

外鎌山は慈恩寺側から見れば、富士山のような綺麗な姿から「朝倉富士」、「磯城富士」とも呼ばれているようです。この外鎌山には、舒明天皇陵がある奥ノ谷から登れます。また、近鉄朝倉台にある外鎌山配水池のタンクを目印に桜井ガス朝倉ガスセンターの横からも約20分で登れます。

山頂には、三等三角点、そして南朝の忠臣・玉井西阿の最後の砦があったという外鎌城跡があり、この「西阿の碑」と「妙西光龍王と法白天龍王」の二龍王を祀る碑が建てられています。
西阿とは、「三輪西阿」とか「開地井西阿」「開住(戒重)西阿」「那良(なら)西阿」とも呼ばれ、戒重城を根拠とした地侍であり、桜井一帯に一族を持つ惣領でした。
『西阿は、鳥見山宗像神社を本拠とし、後醍醐天皇崩御のあと、後村上天皇に続く非常時代の吉野朝廷を守護した。南北朝時代を通じての第一流の英雄である』と、桜井市が誇る日本の文芸評論家であり多数の著作がある保田與重郎氏は述べられている。

この西阿を総大将として、戒重城を中心に河合城、安房城(粟殿)、石原田城(橿原市)が建てられ、その背後を守る砦として外鎌山城、赤尾城、外山城を築き、南朝の陣地が築かれたのです。今も「外鎌山城跡」として、山麓にあるいくつかの石垣に見ることが出来ます。

山頂からは、西を見れば大和三山が、その先には二上山、葛城・金剛の峰が、北には三輪山と龍王山が、南には多武峰、音羽山が臨まれます。近年、「朝倉台外鎌山愛好会」が山頂~舒明天皇陵までの草刈り活動をされており、登山愛好家から忍阪側の登山ルートの整備が期待されています。


 

新古今和歌集 巻第四 秋の上 に詠われて・・・

「大和名所圖會 四 山邊郡 城上郡 城下郡 宇陀郡」に次の和歌が載っていました。特に、堀河()院の御歌は、高圓山にかかる月が描かれた挿絵と共に載っていました。


  新古今和歌集 巻第四 秋の上 に「堀川院御歌」として

『敷嶋や 高圓山の雲間より 光さしそふ 弓はりの月』

  また、續後撰和歌集(読人しらず)に高圓山を詠った歌も載っていました。

『志紀嶋や 高円山の秋風に くもなき峯を いづる月かげ』